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私の好きな日本画家:髙山辰雄(中)

髙山辰雄(言葉)から受け続ける感銘

 


作品に限らず、様々なところで発表されている髙山辰雄の文章にも深く感銘を受けた。

芸術作品というものが作り手である作家の思想や哲学の現れであると捉えるならば、その思考を深める道具は言語を介して行われており、優れた作家の多くが優れた文筆家であるのも当然のことかもしれない(作家によってその文章が読み易いかは別問題)。髙山辰雄の娘の髙山由紀子著『父 髙山辰雄』(2011年)には〈父の言葉はそのままセリフになりそうに洗練されたものだった。父はよく冗談で「僕は、文章はユッコよりも上手い」と言っていたが、案外冗談ではなかったのだと思い知らされた。〉(63頁)という部分があるが実際、残された言葉や文章は魅力的である。展覧会場や画集、図録、その他様々な絵画批評の場で、髙山辰雄の言葉は切り取られ、引用され、なかには多くの人が知る有名な言葉もあるが、今回このコラムでは次の文章を紹介したい。

 

「持って生まれた才能がすべて、という言い方がありますが、私は生まれ持ったものというのは、四、五十歳あたりで消えていくような気がします。才能でやっていけるのはそのくらいまででしょう。

芸術は感覚だ、という言葉もあります。しかし絵は感覚でもありません。知性というものでもない。

感覚で描けるなら、二十歳代の人には敵わない。若い絵描きさんたちの中には色の感覚のいい人やデッサン力のある人、あるいは、ものの見方が斬新な人、そういう優れた人が大勢います。ただ、絵が難しいのは、自分のそうした才能を意識した日から、その人は消えていくような気がすることです。意識すると、それを頼りに絵を描いていくので、いつの間にかつまらなくなってしまうのです。

むしろ、もともと持っている部分とは別のものを鍛えていった方がいいのではないでしょうか。」(『存在追憶 限りなき時の中に』80頁)

 

以上の文章を私は大学院を出た後から、今日まで日本画を続けるにあたり常に意識してきた。数多くの展覧会において作品の審査に携わってきた作家の言葉として重く受け止めている。

(続く)

 

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